一人で食べる侘しいコンビニ飯が、寂しくて可哀想だなんて勝手に決め付けるな。

一人でする食事に辟易することはないけれど、一人でする読書に悲哀を感じさえするときはある。もちろん読書なんてものは一人でするものだが、そんな表面的な部分での話ではない。読書に限ったことではなく、これは僕にとってのことで、食事よりも読書のほうが心の比重が重く繊細に向き合っているということだろう。

酒を呑みまどろんだ頭の中では、いつもこのような捉え難い思考が沼のように広がっている。杳として湧き上がる言葉は翌朝には消えてなくなる寝言のようなもので、しかしこれはきっと僕の奥底に沈んでいる大切なものであるような気がするから、アルコール漬けの鈍い頭でなんとか文章にして残している。

大体が鬱屈としたものばかりで、自分で自分にナイフを突き立てているような状態にもなり得るけれど、そのナイフはどれも美しくて愛しくて、また突き立てたくもなってしまう。それらを基にしてこうしたひとつの大きな文章を作ることも多い。誰に共感されずともこの感覚や感性は自分だけのものでありたいし、なにを求めるわけでもない、ただの表現だ。しかしそう考える一方で、ほんの少しでも誰かに影響を与えたいとも思うし、そもそもとして自分の感性は本当に自分だけのものなのかと滔々と思い始めると、また新たなナイフの刃先が沼の中で光りだす。

確かにちょっとした物事が人生に多大な影響を与えることがある。しかしそれは、元々持ち合わせている素質が結果的にそうさせているだけで、そして同じくして、人は外からの情報に影響を受けすぎるのだろう。本当に内から出るものは絞りに絞った残滓で、だからこそ貴重で美しいものなのだと思う。しかしそれすらもやはり外から受けたものに絶対的に感化されているに違いない。こうしてずっとずっと、おのれや、はたまた今この文化の中にある人間としての感覚に対し根底から疑っていて、そんなことを微塵も感じない性質を持つ者を羨望さえするし、少しだけ軽蔑もする。

なんてまたごちゃごちゃとした奇妙な形のナイフを取り出し、ぼんやりと眺め、それを肴に今日も一人で酒壜に抱きつくのだった。

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