なんつーかこの人、生きづらそうだな

最近アコーディオンに心を奪われていて、延々とミュゼットやシャンソンを流し聴いている。あのナヨナヨとした音のうねりと軽妙なリズム、メロディがとても心地良い。まるでここはパリのカフェ。泥水のような安いコーヒーも、高貴な飲み物かのように気高く湯気を立てる。

よくよく思えば、どうやらフランスの感性が好きらしい。お国のことに詳しい訳でもないし足を運んだこともないのだけれど、映画、音楽、写真や絵画、好きだなぁと感じるセンスはフランスの中に多い。

 

しかしながら、ふと気になったことがある。この趣向、感性は人それぞれで個人のものだと、当たり前に思っていた。だが、この価値観さえも実は、多数の誰かによって作り上げられたものなのではないのだろうかと。

美しいと感じる。何故美しいと感じるのか。誰しもが美しいと思えるのはどうしてなのか。その美しさは皆共通なのか。

結局のところは、生まれてから触れ聴き感じてきたものによって形成されていく部分も多い。つまりは教育や環境、大げさに言えば文化次第とも言える。

我々日本人は少なからず欧米コンプレックスを持っているであろう。開国し、敗戦し、洋文化に取り込まれたのだからやむを得ない。悪いことだとも思わないし、厭わない。そもそもで言えば、欧米の感性が良しとされること自体、欧米諸国が力を持っているがゆえに、スタンダードとして世界の感性に成り得ているのでは、とさえ思う。

厳密に言えば感性とは、そういったものに影響されない、もっと内包的で直感的なものだ。「ああ美しい」この感覚は、本当に何にも影響されずに生まれてきたものなのだろうか。

 

ミュゼットが好き。カルボナーラが好き。路地裏や廃墟、悲哀的な雰囲気が好き。この感覚は絶対に自分のものだが、この感性は一体誰のものなのだろう。

思考はいつまでもうねり続ける。アコーディオンの音色のように。

 

 

 

っていう哲学的欧米コンプレックスエッセイ。ちなみに「エッセイ」の語源、由来もフランス。カルボナーラはイタリアだけど。

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